読書メモ:アダムスミス

今日は銀座で穴場のカフェを見つける。広くて安くて誰もいない。ゆっくりアダムスミスを読む。Homo Ecomomicusが社会規範を前提とした存在であると定義し、その中での商業・経済の成立、個人のアトム化、市民社会の誕生、社会契約を論じている。

ヒュームとの違いは、ざっと読んだだけではよく分からないが、ステュアートとの対比において、まさに今日的なイシューへの視座を与えてくれる。200年前に書かれたものとは思えない。

現代の市場原理主義者が(自然状態の中での)自己責任論に問題を帰結させ、それ以上掘り下げようとしない状況には違和感を覚えていたが、その辺りのモヤモヤがはっきりしたような気がする。やはり自分は(自然状態下の)重商主義者ではなく、平等・自由・正義を追求する自由主義者であるはずだ。

重商主義的な経済政策に基づけば、貿易上の均衡・優位性追及による国富最大化を政策目標とするが、ステュアートが指摘するとおり、いったん外国需要が喪失されれば、供給過剰による勤労者の窮乏と失業の危険がもたらされるのである。また、重商主義的な経済政策が国民生活を向上させるかといえば、「いざなみ景気」の例で明らかな通り、そこに直接の因果関係は存在しない。

あらゆる国民の繁栄を目指すのであれば、各人が各様の方法で、法を犯さない限りにおいて自らの利益を追求することのできる社会を実現することが基本となるべき。あらゆる国民の繁栄を目指した計画経済、「ファシズム」という方法論は否定されなければならない。

現状の市民社会の前提となる分業、つまり商業(交換)経済を成立させるために、特に先進諸国において重要となる課題は生産性よりも有効需要である。技術的には、企業経営のグローバル化というのは、外に有効需要を求めるという意味で正しい流れなのだろう。ただ、もし国富ということを、重商主義以外の視座から考えるならば、国内における有効需要のリーズナブルな喚起も併せて必要になる。

そういう意味で、非常にミクロながら、有効需要の創造に直接インパクトを及ぼす仕事ができていることに、今日の時代的意味を感じる。財・サービスの供給に際する生産性向上とともに、有効需要のリーズナブルな喚起を図る方法論の完成度が5年前と比して大きく前進してきたように思う。

恐慌後のブロック経済化が世界大戦を引き起こしてしまったことは、歴史において明らかだ。同様の間違いも起こる可能性がある。奢侈の追及を許される貴族階層を組み込んだ、方法論としての資本主義ではない、新たな富の定義に基づく骨太な経済思想が求められている。はず。