札束とピストル

ソマリア沖の海賊対策に、すごい数の国の海軍が出動しているという話。以下のブログは、問題解決のために札束とピストル、どっちの選択肢をとるべきかという議論。

(元)漁民と闘う世界連合艦隊

自衛隊を派遣するより、現地の海賊化した漁民に経済援助して海賊行為を止めさせた方がコストが掛かりませんよね、というロジックです。たしかに一理あるかなとは思います。

理想的な答えとしては、札束とピストルの両方が必要なのでしょう。
しかし、国家が正義というフィクションを振りかざすとき、そこには札束という選択は無くなり、いわゆる戦争・紛争・武力衝突が生まれてしまう。しかし一方で、正義を希求しない国家というフィクションが成立するかと問われると、それこそ本当に不可能な命題に陥ってしまう。

要は、正義を振りかざさるを得ない場面にまで持っていってしまったことが、そもそもの間違いだということです。

札束とピストルのジレンマを止揚する力こそがソフト・パワーでありパブリック・ディプロマシーであると、私は信じています。例えば、もし仮にReuterやAP、AFP、Economist、Times、Newsweek、NYT、WP、WSJといった国際通信社が、今回のソマリア海賊問題を凶悪なマフィアによる犯行というだけでなく、貧困にあえぐソマリア漁民の生活問題として、その原因を深く取材した上で報道していたらどうであったか。

そもそもの「問題の定義」が違っていたはずだし、その結果、国際社会の問題解決アプローチも、より本質的なものになっていたはずと思います。問題定義が歪んでいたとすれば、それは何らかの失敗や意図が背景にあるはずです。

少し話が飛ぶかもしれませんが、ブラック・プロパガンダをいかに封じるか。メッセージ(による国際世論形成)の健全なる市場競争が作為的に阻まれるのを防ぐのは、本来的には通信社を含むメディアの役割です。しかし、それが外部経済性や様々な障壁によって機能しなくなることも多い。

ブラック・プロパガンダが、情報の非対称性によって初めて行使できる手法であるという前提に基づけば、それを許さないシステマチックな方法が必要であり、それを担うことのできる主体が必要になるんだと思います。そして、それは公取に類するようなネガティブ・リストに基づく法律の運用主体ではなく、あくまで第4の権力を体現するもの。つまり、民間の権威によるディスカッション・ボードであるべきです。

在野の思想家が、その深い思想と洞察に基づき、これまで以上にメッセージを発信していかなければ、いつまで経っても、今回のような「失敗」は払拭されません。前回のエントリーで書いた竹中氏ではありませんが、そういう民間サイドの権威の層の薄さこそが、この国と世界の根源的な問題であるように感じています。