発言者の実力

世界中のブログの実に1/3が日本語で執筆されています。自動生成のスパム・ブログの割合が言語圏毎にほぼ一定とすれば、「人口当たりの社会的情報発信者の割合で日本人は最多」ということを示す一つのFactと言って良いかもしれません。

私がブログというものを初めて知ったのは2001年の秋だったと記憶しています。SFCあたりで突然のように流行しだし、私も取りあえず友人にサイトを用意してもらって色々書いていました。トラックバックやコメントといった新しいコミュニケーション方法に戸惑いながらも、新しい世界を楽しんでいました。

それから7年。冒頭グラフのように日本人ブロガーの数は爆発的に拡がり、MixiGREE等のSNS内日記を含め、非常に多くの人々が日常の中で自らの言論を発表する機会・場を得たわけです。これは非常に喜ばしいことに違いない。

たとえば今日の毎日新聞記事「消費増税「11年度」明記で自公が合意」については既に196件のMixi日記がつけられているし、Technorati検索では457件のブログ記事がエントリーされています。ざっと表題を眺めていくだけでも、国民の評価の傾向は把握できるのかなと。

つまり「増税はしょうがない」が、「今の政治家の無能さに怒りを覚えている」中で、「そもそも他の解決策の可能性を知りたい」という3種類の意見が大勢であると。もちろん一つ一つの日記やブログの中身は意味の不明なものが多い。しかし、大勢としての意見はその内容・全体割合ともに非常に納得のゆくものに落ち着いているという不思議さ。ミクロな現場の実感が積み重なった時の神秘的な論理性や説得力というものを常に感じるわけです。

さて、あらゆる情報発信に特定の主張が付随しているとすれば、1つの主張に基づくニュース・ソースに依存することはリテラシー上、極めて危険です。なるべく広範なソースからの情報収集を心掛けることが洗脳されないための第一歩と言えます。

なんでそんな事を言うかといえば、所謂「権威媒体」と一般に目されるメディアの実態が、そもそもMixi日記やブログ世論以上の価値を生み出しているのか非常に疑問をもつからです。

もちろん信念・思想をもって熱心に取材・企画・執筆をされている方も多いのですが、失礼ながら半分以上はそうではない。他媒体の模倣を延々と繰り返す中で、本質を見失ってしまっている人がとても多い。

それでいて、そういう人ほど大きな勘違いをしている。自分こそが社会をリードしているのだという万能感に陥ってしまっている。取材に来たと思ったら「私はそんな話より、日本経済の根本の話を聞きたいんだ」とか言って、「●●大崩壊」なんて特集を組んでしまう。(●●には雇用とか年金、ゼネコン、トヨタ自治体なんかが入る) もしそんな特集を読んで騙されている市民が多いとしたら、本当に目も当てられないと思うわけです。

そういうメディアは、いまだに危機意識を煽るタイトルをつけるだけで部数が伸びると思っているのが残念な上に、解決に資する仮説さえ示さず無責任な扇動に終始している。信じられないことですが、ときには「××はケシカランという特集を組みたいんですが、そういう趣旨でエッセイを書いてくれる有識者とか経営者を紹介してくれませんか」なんてグロテスクなことを言ってくるのもいるのです。

本当に、日本の言論って、どこに言ってしまったのかなと。

しかし、それは言論のフィールドが緩やかに次の形へとシフトしているだけなのかもしれません。本当に魅力ある主張を展開できる市民の手へと。

大手メディア各社が赤字というのも、純粋に発言者としての実力が足りない。ただ単に、それだけ。
F舘I郎の報道ステーションとか、本当にひどいですよね。久しぶりに見たけど。あんな言論クオリティなら、ブログのRSSフィードでも拾い読みしていた方が全然まし。