上田の縁側にて思うこと

毎年末の個人的恒例行事になっていますが、祖父母の家に来て大掃除や正月準備の手伝いをしています。祖父母はかなり高齢(82歳&80歳)ですが、まだまだ元気がよく、今年も安心しました。

今朝は早く起きて午前中いっぱい、餅つきをしました。祖母の妹が有機で育てたもち米は最高に美味しく、つきたてのお餅は何もつけなくても素材の甘味があります。全部で12升のもち米をふかすところから始めるので大変ですが、終わると達成感がありますね。

つきたてのお餅を昼食とし、午後は日当たりの良い縁側にあるソファーで少し仕事を片づけています。昨年末に私がニスを塗った縁側です。暖かい縁側から見える枯山水の庭には、雪が少し積もっていて素敵な感じです。私は小さい頃から、寒い時期に、この庭の雪を眺めながら縁側で冷たいミルクを飲むのが好きでした。

ここにいると、東京のある種の異常さというものを強く自覚することができます。毎日15分刻みのスケジュールで、文字通りのフル回転で16時間を走り切るという生活。

陽のあたる縁側でノートPCを開いて、昨夜遅くに来ていたアメリカからの数通のメールに諸々返信していると、そのスピード感や緊張感のギャップに言いようのない違和感とおかしさを感じるわけです。世界がフラットになった代償として、我々は自らを支える重力を失ってしまった。そんなことが頭をよぎるのです。笑

しかし、その異常さを自覚する一方で、そういったスピードやテンションといったものに身を任せていることに大きな安心や高揚を実感していることも事実です。いつのまにか、ある種の使命に関する自他の認識が育っていて、「使命を帯びる以前の自分」から「使命を帯びた後の自分」が、少しずつ遊離し始めている。そのことを本能的に悟っているのでしょう。

まだまだ私には、所謂「普通」の感覚や記憶が残っています。しかし、その使命とやらに集中し続けた結果、少しずつ常軌から外れていってしまうことには抗えないのでしょう。Positiveには覚悟、Negativeには狂気と呼ばれるものですが、どちらも私を、幸せにも不幸せにもし得るものであることは間違いない。

来年の今頃も、この庭を眺めながら、冷たいミルクを楽しめますように。そういった一つ一つを失いませんように。そのために、また来年末もここに来ようと思っています。